小学校の全校生徒が60人だった、私のふるさと
「京都出身なの? いいね!」
出身地を伝えるとそんな風に言われることが多い。
京都というと、「雅やかで、寺が多くて、道が広く整っていて、おしゃれで、外国人が多くて……」と、そんなイメージを抱く人が大多数じゃないだろうか。
だからこそ「いいね!」と言われるんだろう。うん、京都(市)っていいよね。
私のふるさとは京都府下だけど、もっともっと北の田舎町、福知山。
「福知山線脱線事故」や、「福知山花火露店爆発事故」などで名前を知っている人も多いと思う。
福知山には明智光秀の城もあるし、動物園もあるし、最近スタバもできたらしい。
たまに大雨で水没してニュースになっていたりするような町です。
ちなみに京都市内から福知山に行こうとしても2時間はかかる。
皆が一同に思い浮かべるような「京都らしさ」のカケラも感じない、小さな田舎町だ。
山に囲まれている盆地なので蒸し暑さだけは似ているかもしれない。
自分はその小さな町のさらに隅っこの村みたいなところで育ちました。周りには山と畑と田んぼしかないようなところです。
ほら、もう「京都」のイメージからは大きくかけ離れているのではないだろうか?
通った小学校がなくなる
私の実家の学区内にあった小学校は全校生徒がたったの60人弱しかいなかった。
よく、田舎ってどの程度? の答えとして「小学校の全校生徒数が60人しかいない」と答えていた気がします。
世の中にはもっと少ない人数の小学校もあるだろう。でも自分の生まれ育ったふるさとの「田舎度」を説明するのには最適な数字だったのでした。
田舎の小学校にはクラスなんてないのだ。
学年に10人しかおらず。全校生徒で集まっても体育館の半分も埋められない。
それが私の小学校でした。
その小学校がなくなるらしい。
ああ、ついにか。
いつかそうなるだろうとは思っていたけれど、実際になくなると聞くとなんだか少し寂しく、切ない。
何が出来る訳でもないけれど、数十年以上前の思い出の場所がなくなるのはなんだか悲しい。
今後「田舎ってどれくらい田舎なの?」と聞かれると、「通った小学校がなくなっちゃったよ」と答えることになるのでしょう。
当たり前に「あり続けること」ことって意外とすごいことなんだなぁ……。
ふるさとを想うという普通のことが尊いことなのだと気付かされた出来事でした。
想うものが「在る」うちに
ああ、もっと親に子供を見せなきゃな。実家に帰らなきゃな。
出来る限り、思い出のままでいて欲しいだなんてただのワガママなんでしょうけど。
とりとめのない郷愁のお話になりました。
少しずつ在ったものがなくなったり。
私の知らない何かができたり。
それが私のふるさとです。